時はどこへ

父はスポーツマンだった。子煩悩で幼かった姉と私によくキャッチボールを教えてくれた。息子にもキャッチボールを教えてあげたいと思った時、
「じーじに教わったら?」
と言おうとしたら、そこには年老いた父がいた。この間まで一緒に外出すると「ご主人」と間違われるほど若々しかったのに

早起きをして毎朝行っていた近所のラジオ体操からの帰り道で転倒してから散歩や外出が減っていった。
「ほんと、恐いからやめて!いつでも車で送って行くから!」
家族から何度言われても原付きバイクで通っていたグランドゴルフも休みがちになっていった。

「こんなになっちゃうだもんなぁ…」
老いていく身体と体力の低下を外出するごとに嘆いていた。歩行に杖を使うようになり、トボトボとゴミ出しをする後ろ姿がちょっと悲しそうにも見えた。

「お父さん、そろそろ車椅子使った方がいいかな」
しばらくして姉に相談したら、
「私が前回病院について行ったときはもう車椅子使ったよ」
そうか、やっぱり…。

膵癌との共存。「生きた心地がしない」とそれまで見せたことのない心細そうな笑顔で手術室に入って行ってから5年。「手術の成功」、「再発の診断」、「癌の消滅に歓喜」とジェットコースターのような気持ちの浮き沈みを繰り返した。先生や家族から幾度言われてもほぼ毎日欠かさず飲んでいたお酒(父曰く「流動食」、笑)まで控えて臨んだ最後のCT検査前にポツリと出た父の本音。
「大丈夫だといいなぁ」
結果は癌の再発だった。
「進行性ですからもう何ヶ月という話じゃないでしょう」
少し耳が遠くなっていた父に先生のこの言葉は聞こえていただろうか。

食べ物が美味しく感じなくなってきて食べる量が減り、大好きだったお酒を飲まなくなった。ベッドで過ごす時間が増えていった。
「もうダメだぁ…」
膝に手を置き下を向いてボソッとお見舞いに来てくださったお友達に話した。

自然と受け入れたのか諦めたのか?両方なのかな。最後の2ヶ月くらいは何だかあっという間だった。

看護師さん・ケアマネさんには感謝の気持ちでいっぱいだ。本当によくしてくれた。おかげで祖父・祖母の時と同様に父も自宅で家族に囲まれて最期を迎えることができた。このコロナ禍普通に、一緒に過ごせたありがたさ。日本に来てから息子もたくさんじーじとの思い出を作ることができた7年だった。

涙。父が息を引きとる直前に浮かべた涙。祖父もそうだった。その涙の意味はとてもとても私にはわからないけれど、後悔なく安らかに魂が身体を離れていったのだったらいいなと思う。何とも穏やかな、うっすらと微笑んでいるような顔だったから、そう信じたい。

「今日は蕎麦でも食べて行くか」
病院からの帰り、外食が好きだった父とよく行った蕎麦屋やステーキハウス。前を通る度に助手席に父がいないのに気づいて寂しくなる。

お父さん、ありがとう。お疲れ様でした。

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