真面目な日本人〜大停電〜
2003年8月14日、当時マンハッタンにあるイーストビレッジのレコード会社でインターンをしていた時だった。突如使っていたパソコンが「ヒューン」とパワーダウン。天井のライトも暗くなってオフィス内の電気が全て停まったようだ。少し経つとエリア一帯が停電になっていることがわかった。仕事どころではなくなった。
トボトボとオフィスから徒歩15分くらいのアパートに戻るとアパートの住人がたくさん建物の前に出てきていた。誰かがラジオニュースを皆に聞こえるボリュームにしてかけてくれていた。隣に住んでいたおじいちゃんが寄ってきて
「こういう時は皆で協力していくんだ。何かあったら言うんだよ?」
と言ってくれた。
ルームメートはプエルト・リコの娘の所に行っていてちょうど留守だった。だからおじいちゃんは余計心配してくれたのかもしれない。コミュニティーの結束ぶりにちょっと感動しながら薄暗いアパートに入った。昼間だからまだ窓から光が入ってきていたが、万が一夜までに復旧しなかったら?と懐中電灯やキャンドルを探した。
念の為もう少し買っておきたいと思って近くのハードウェア屋さんに行くと、皆考えることは同じで店前に長い列ができていた。混乱が起こらないように店員がお客さんを数人ずつ真っ暗な店中に連れて入って懐中電灯を使って案内している。私の番になって暗~い店内に入る。とりあえずこんなものかと電池を持って店外の仮設レジへ。正確な値段はもう覚えていないが、金額を聞いて
「へっっっ?!?!?」
と仰天した。停電に便乗して値段をエラくつり上げている。なんと商魂たくましい。でもないと困るので買わざるを得なかった。
その夜は一人アパートでじっとしていた。人間も動物、本来暗くなったらじっとするものなんだよだなぁ、なんてキャンドルの火を見て考えながら。アパートの階段をキャーキャー騒ぎながら降りて行く子供の声がした。どんなものかとそっとアパートのドアを開けてみると本当の闇だった。
翌朝になっても電気は戻っていなかった。当時私は大学院に通いながらインターンを二つ掛け持ちしていたのだが、その日は昨日とは別のインターン先であるミッドタウンの大手レコード会社に行く日だった。停電イコールパソコンも使えなければオフィスも真っ暗だろう。だいたいバスも地下鉄も走っていないし。
ところが、である。私の中の真面目な日本人の血が騒いでしまった。もし他に来ている人がいたら?なんとかして行くべきでは?当時のアパートはイースト21丁目。ミッドタウンのど真ん中へは30分くらい歩けば行けるだろう…。歩いて行きましたよ、閑散としたミッドタウンまで。
信号もついていないマンハッタンは不思議な場所だった。やはり閑散として薄暗い高層ビルの入り口を入ると、セキュリティーのおじさんがいた。
「君で今日3人目の出勤者だよ。41階まで歩いて上がる気だったらどうぞ。暗いよ。」
だと。実はマンハッタンの夏は日本の夏に近い程蒸し暑くなったりする。この時点である程度の体力は使っていたし、さすがの日本人の血も「もういいじゃん」「この先行ったらアホだぞ」と言っていた。
“I guess not.”(行かないよねぇ、といった感じ)
とおじさんにバイバイしてビルを後にする。
ちょっと歩くと限定的に運転を再開していたバスがあった。ルートははっきりわからないが、ダウンタウンに向かっていることは間違いない。それにとび乗って帰宅することにした。道中黒人のお兄ちゃんが乗って来て見るからに怪しげな電池を手に
「電池いらない?」(もちろん買いません。)
今思うと懐かしいし、いい思い出だったりする。真っ暗いスーパーや近くのギフトやさんにもキャンドルを求めて入ったっけ。
後日談。停電の直後、私は極度の下痢・嘔吐・発熱に襲われた。タクシーに乗ってER(救急外来)に自ら駆け込んだが数時間待たされた。その間バイト先に
「注射でもしてもらえば良くなって行けると思います」
と電話を入れたものの結局3日程の入院だった。後日送られてきたbill(請求書)には1万5千ドル(約150万円)の請求があった…。(そう、アメリカの医療費はめちゃくちゃ高いのです。)留学生だった私は強制的にしっかりとした保険に入らされていたので、幸い1割程度の自己負担ですんだ。お金のことはさておき大腸炎を引き起した原因だが、スーパーで直後に買った食品が怪しかったのではないか、と私は思っている。医者の口からサルモネラという言葉が出ていたぞ。あの停電でちょっとダメになった食品をそのまま売っていたのではないか。私の推測だが、かなり確率は高いと思っている。
これが2003年の北アメリカ大停電というやつだった。この経験が生きてか、次に大停電が起きた時はかなり余裕だった。
備えあれば憂いなし。☟