タイヤバースト事件

オネオンタというニューヨーク州のど田舎にある州立大学(最近、新型コロナウィルスのクラスター発生がニュースになったパーティー学校です…)のキャンパスでミュージックビジネスの勉強をしていた留学2年目の出来事。親には学部を卒業して2年で戻ると約束していたけれども、もっと勉強したくなってしまった。そこで大学院に進むことに。ミュージックビジネスの修士課程がある大学はそう多くないので志望校を選ぶのに苦労はしなかった。が、資料請求をしてアプリケーション(出願)の準備を開始すると、まぁナント大変なこと。倍率もかなり高そうだ。手落ちがあってはならないとまずは出願書類、特にエッセイ(作文)のことで教授にアドバイザーとなって貰えるよう依頼しに行った。エッセイ以外にも推薦書(letter of recommendation)が4通ほど必要だったし、GREという共通テストを受ける準備、そして数年ぶりに受けるTOEFL。授業や課題の合間によくやったものだ。申し込み用紙の記入には、校舎の奥の方の小部屋に置いてある年代モノのタイプライターを借用した。渡米前の勤務先で、もうメンテナンスして貰えないくらい古いタイプライターを使っていたのがこんなところで役に立つとは。

さてさて、TOEFLだが留学前の結果はもう使えないのでオネオンタから一番近い町にある会場で受けることになった。当日は予約の時間に間に合うように早めに車で出発した。近い町とはいえ車で40分ほどはかかるのだ。

当時私が乗っていたのはMazdaのえらく古い車だった。アメリカでは日本のような車検はなく個人間の売買も珍しいことではないから信じられないような状態の車が普通に走っているが、私の車も古さという意味ではなかなかのものだった。あまりお金はかけられないが安全第一と当時のボーイフレンドに相談したところ、彼の親戚にメカニックがいて「信頼できる安い車」を購入することができたのだった。それまでは車がないとちょっとのお出かけもままならない田舎暮らしだったから、このMazdaちゃんの登場によって生活はうんと快適になったし、車のない友人を乗せて買い出しに出かけたりしたものだ。

TOEFLの当日もこのMazdaちゃんに乗って出発した。オネオンタとその周辺はキャッツキル・マウンテンズと呼ばれる美しい山地で、この日も紅葉を始めた秋の木々を楽しむドライブ日和だった。道中での恐ろしい出来事が起こるまでは...。

Try Apple Music

インターステートと呼ばれる州を跨ぐ高速道路には他の車が殆ど走っていなかった。視界も良く、順調に試験会場に向かっていた。と、突然、パーン!という音とともにMazdaちゃんがガタガタと揺れ出したのだ。その揺れがハンドルにもろに伝わってくる。「パンクだ!」即座に察した。周りに車がいなかったのは本当にラッキーだった。後続車がいたら、追突されてその場で天国行きになっていたかもしれない。ハザードランプを点灯させて路肩に停車する。「どうしよう...」高速の中間地点。電話も何もない。今のように携帯電話など持っていなかった頃の話だからその場でAAA(トリプル・エー、日本のJAFのようなロードサービス)に連絡もできない。

「近くのお店まで自力で行くしかない!」2車線の道路で殆ど車がいないのだから、ゆっくり走っていれば後ろから来る車は追い抜いていってくれるだろう。心配なのはパンクしてぺっちゃんこのタイヤでどこまで行けるのかということだ。高速の次の出口まで数キロあるかもしれない。「まぁ、途中でいよいよダメならパトロール中のおまわりさんが見つけてくれるし」こういう時、脳天気だと徳だ、とつくづく思う。ハザードランプをつけたまま、道路の凸凹を感じながらペタンコタイヤでゆっくりと進んでいった。これまた幸い、出口はそう遠くなかった。ガタゴトガタゴトと小さなお店までたどり着けた時の安堵感といったら。

とりあえず公衆電話から試験会場に連絡を入れる。
「まぁたいへん!こちらはいつでもいいから気をつけて来てね」
電話の向こうのスタッフはとても優しく、涙が出そうになる。だが、泣いている場合ではない。試験会場までたどり着くにはスペアタイヤに付け替えないと。自信ないなぁ...、しかもツールを持っていないし!こんな時、優しい人が現れて
「どれ、やってあげるよ」
なんていう展開になればサイコーなんだけど、さすがに人生そこまでは甘くなかった。

お店に入って
「パンクしちゃったんですけどツールがあったらお借りできませんか?」
と聞くも、
「ツールはないんだ」
とあっさり断られた。そのあとお店に出入りしたお客さん数人にも勇気を出して聞いてみたが軽く ”No”  とあしらわれてしまった。今思えば、お店にも、数人いた来店客の車のどの一台にもツールがないなんて事はあり得ない。これが厳しい現実というものなのだ。確かに、アメリカは日本のように治安が良くないからこういうシチュエーションで警戒されるというのはあり得る。更にアジア系住人がとても少ないエリアだから余計にそうだったり軽視されるというのももちろんある。いずれにせよ、これは長年アメリカで暮した中でもガッカリな出来事のトップリストにランクインするし、あの駐車場の秋の日差しと殺風景さは忘れる事が出来ない。結局お店に再度入ってAAAの電話番号だけ調べてもらい公衆電話から電話をし、ロードサービス到着まで更に孤独の1時間を過ごす事になった。

親切なAAAのお兄さんは神業のようにスペアタイヤに付け替えて
「帰ったらなるべく早く新しいタイヤに変えてね」
と教えてくれた。結果的には自分で慣れない作業をしてドライブを続行するリスクを回避できたし、見えない力が良い方向に導いてくれたとしか思えない。その後は無事にTOEFLの試験会場まで辿り着き、試験を受けてから更なるハプニングもなく生きてオネオンタのアパートまで自力で戻れたのだから。

バーストタイヤの洗礼から数ヶ月後、Mazdaちゃんでノースカロライナのホストファミリーを訪れた。あの古~い車で10時間を超えるロング・ドライブを、しかも時速100キロのスピードでしたと思うと、自分のあまりの無謀さに呆れかえってしまう。怖いもの知らずにも程があるというものだ。案の定、ノースカロライナに到着する頃にはオイルだかなんだかわからない液体が漏れていて、ホストファミリーのパパにみてもらう破目に。パパはメカニックではないから
「数日かかるだろうがちゃんとみてもらったほうがいい。オネオンタまで無事戻れるか保証できないよ」
とアドバイスをくれた。しかし時間もお金もないビンボー学生の私は、パパの応急処置のままノースカロライナをあとにした。ホント、よく生きて帰れたよ…。

この一件の後はさすがに命の危険を感じ、地元の業者に点検をしてもらった。そして卒業とともにMazdaちゃんはボーイフレンドの親戚に引き取ってもらった。

半生を振り返ると、かなり無謀なことをやっていたり、その時は気づかなかったけれど実は危ないことをしていたのがわかる。その都度、ご先祖様たちが
「あぁ、またやってるぞ。仕方のないヤツだ」
と守っていてくれたに違いない。そして合格した幾つかの大学院からニューヨーク大学を選んだ私はニューヨーク・シティへと導かれて行ったのだった。


日本ではあまり心配しなくて良さそうですが…。万が一に備えてこういう最低限のものは載せておいた方がいいのでしょうね。

Previous
Previous

カレー嫌いの夫

Next
Next

ブルックリンの物乞い少年