Dear Ms. Carol Sloane
息子の夏休みが始まってポッドキャストやブログが全て一旦停止する(完全ママモードにトランスフォームする)前に、大好きなジャズ・ボーカリスト Ms. Carol Sloane のエピソードを仕上げてアップしようと思っていた。が!夏休み直前にある出来事に遭遇してしまい、夏休み後の今ようやくアップすることができた。
…という言い訳からスタートの今回。あまりに気分が盛り下がってしまったその「出来事」とは…「ノミ事件」。近所の野良猫についていたと思われるネコノミに足元をやられてしまった(泣)。たかが虫ごときで「メンタル弱いな~」と自分を責めつつも、その痒いこと!眠れない夜が続いた。そして刺されたところが水ぶくれになり巨大化して皮膚科さんで切ってもらう事態に。更にその跡が痛い!痛いやら、痒いやら(トホホ)、水ぶくれを見ては卒倒しそうになりつつも、何度も皮膚科に通いネットでも色々と調べたのでかなり勉強にはなった。どうやら私は虫に好かれる類の人間らしいということにも気付いてしまったし(号泣)今後の対策を考える良い機会になった。そして何よりも、被害に遭ったのが息子でなくてよかった!どうぞ皆さん、許可なく勝手に人の血を吸う「ヤツら」にはくれぐれもお気をつけて。
ポッドキャスト「Meg for Life Songbook 〜オンガクのオモイデ〜」☝︎(Anchor・Spotify・Apple Podcasts・Google Podcasts・Amazon Podcast でお聴きいただけます。)
さてさて、息子の夏休みも明け、Ms. Carol Sloane のエピソードが完成した。彼女は私にとって特別なボーカリスト。ニューヨークで奮闘していた若かりし頃、楽しい時のみならず悲しい時も悔しい思いをした時も、そしてジェラシーを感じた時も、いつも私の心に寄り添ってくれたのは彼女の歌声だった。その歌声から伝わってくる感情の深さといったら。ついつい作業の手をとめ音をイヤホンに切り替え目を閉じる。するとその感情は私の中に沁み入っていく。
実は今回のエピソードの制作にあたって Ms. Sloane のウェブサイトを久々に覗かせてもらったのだが、その時、2020年に彼女が脳卒中で倒れられて現在リハビリ中ということを知った。彼女は御年85歳。リハビリ施設でリスニングセッションを主催したり、レッスンをしたりとまだまだ前向きに活動をされているご様子だ。彼女の長年の友人でドキュメンタリー映画『SLOANE • A JAZZ SINGER』のエグゼクティブ・プロデューサーである Stephen Barefoot氏が彼女について語った時、“resilience(立ち直る力・強さ)”という言葉が出てくるように、彼女の強さと前向きさがうかがえる。
そして “I’ll Always Leave the Door a Little Open”『いつもドアを少しだけ開けておくわ』としなやかに歌いあげる彼女のこれまでの人生の足跡をたどってみると、Ms. Sloane がどうしてあれだけ深く複雑な感情を表現できるのかがわかる気がする。
Ms. Sloane はアメリカの北東部に位置するロードアイランド州のスミスフィールドという町で育った。過去のインタビューに「楽譜を読まない」とあったが、教会で歌いながら育った彼女はその頃から音を聴いて曲を習得するスタイルのようだ。14歳の頃から週2回、人々の前で歌うようになる。
1955年に18歳で地元のディスクジョッキー Charlie Jefferds と結婚しコロラドに転居、更に1年後ドイツに渡る。1958年にアメリカに戻り円満離婚。
ニューベッドフォードかフォールリバーかのクラブ(どちらか思い出せないそう)で歌っていた時に Les and Larry Elgart Orchestra のロードマネージャーである Bob Bonis に出会う。バンドは解散するが、Ms. Sloane はニューヨークに移り Larry Elgart Orchestra に入って1958~1959年の2年間活動する。
Carol Morvan として生まれた彼女はステージネームとして Vann という姓を名乗っていたが、Larry Elgart は Vann を好まず、毎晩観客に別の名前で紹介していたそうだ。ある日皆でアイデアを出し合っている時に誰かが “Sloan” というアイデアを出した。Ms. Sloane は最後に “e” をつけた方がいいと提案し、翌日、その名で法的手続きを済ませたそうだ。
1960年にバンドを去るが、ニューヨークで秘書の仕事をしながら歌を続けた。1961年、Larry Elgart Orchestra とペンシルベニア・ジャズ・フェスティバル出演中、Dave Lambert と Annie Ross と共に会場にいた Jon Hendricks に出会い、Annie が出演できない際の Lambert Hendricks & Ross の代役をしないかと声をかけられる。Lambert Hendricks & Ross の全アルバムを持っていた Ms. Sloane は、秘書の仕事から帰宅すると毎晩そのレコードをかけて彼らの曲を習得した。その後、Annie の代役としてフィラデルフィアの Pep's Lounge で歌うために「2 week notice なしで」秘書の仕事をやめている。(アメリカでは退職の意思を2週間前には知らせるというのが一般的。)
1961年4月、Lambert, Hendricks & Ross のビレッジバンガードでの公演を聴きに行った際に Jon から「何曲か歌って」とリクエストされステージに立つ。それを見たバンガードのオーナー Max Gordon から10月の Oscar Peterson のオープニング・アクト(前座)をやらないかとオファーされる。
そのニュースに歓喜した Jon は1961年のニューポートジャズフェスティバルの音楽プロデュースを担当していた Sid Bernstein に働きかけ、フェスティバルの “New Stars of '61” プログラムに出演することになった。ニューポートジャズフェスティバルに出演した際に歌った “Little Girl Blue” のAメロのコードをピアニストが知らなかったのでアカペラで歌い(当時はとても珍しいことだった)夕方で観客は殆どいなかったものの、その素晴らしさにステージ袖ではレコード会社のエグゼクティブやメディアがペンを手に待ち構えていたそうだ。Sid は急遽、最終日の夜のステージに Ms. Sloane を再登場させることにし、彼女は今度は数千人の観客の前で同じ “Little Girl Blue” を歌うことになった。この「突然」現れた無名歌手の見事なアカペラのニュースが新聞のヘッドラインを飾り、Ms. Sloane は一躍スターとなる。
数ヶ月後にはコロンビアレコードから初のアルバム "Out of the Blue” がリリースされ、その後はテレビにも頻繁に出演するようになる。
1962年の夏にコロンビアレコードから2枚目のアルバム “Live at 30th Street” が、1965年には4枚のシングルがリリースされる。
1960年後半はナイトクラブでの演奏を続けた Ms. Sloane だが、1960年台はまた “The British Invasion(イギリスからロックミュージックがアメリカに入ってきて台頭した)”が起こり、バーブラ・ストライサンドといったポップミュージックなどの新しい音楽が勢いを増した時代でもあった。Ms. Sloane はその人気からビートルズやローリングストーンズのアメリカ国内ツアーにも同行したが、ジャズというジャンルは徐々に隅に押しやられていった。
後にインタビューで「もう5年早く生まれていたかったと思うか」と尋ねられ、Ms. Sloane は「もちろん」と答えた。「Chris (Connor)、June (Christy)、Anita (O’Day) らは皆1960年代初頭にはキャリアを確立していたけれど、私が目立ち始めた頃には音楽シーンは全体が変わってしまっていたし『アメリカン・ソングブック』(いわゆるスタンダードナンバーとして定番となっている楽曲の総称)には同じ価値がなくなってしまったから。」
ニューヨークでの生活を支えるために Ms. Sloane は再び秘書の仕事を始めなくてはならなくなった。1969年、ノースカロライナ州のローリーに引っ越し、昼は秘書の仕事をしながら夜はクラブ “The Frog and Nightgown” で歌うようになる。
1970年台の後半にジャズピアニストの Jimmy Rowles と出会い結婚し再びNYへ。Jimmy とは3年間一緒に住むが、アルコール中毒の彼との生活は大変なものだった。ある日彼女は自らの命を絶とうとする。
1981年1月にボストンに移り、法律事務所での秘書としてのフルタイムの仕事を一旦は受け入れるが、ノースカロライナ州、チャペル・ヒルの旧友(前出のドキュメンタリー映画『SLOANE • A JAZZ SINGER』のエグゼクティブ・プロデューサーである Stephen Barefoot氏)から電話があり、彼が始めるクラブのブッキング(アーティストの出演契約をとること)をしてくれないかと依頼されチャペル・ヒルへ転居。そこで彼女は知り合いの有名アーティストを実際にブッキングしたのだが、Shirley Horn、Joe Williams、George Shearing、Marian McPartland、Anita O'Day、Jackie & Roy、Carmen McRae 等々、まさに錚々たる顔ぶれだった。彼女自身も歌っていた。この頃はラジオのホストも務めた。しかし2年後にクラブは廃業となる。
1984年、Ms. Sloane は Buck Spurr氏と出会い1986年に結婚してボストンへ。(それから現在に至るまで同じエリアに住んでいるとのことだ。)
Ms. Sloane は1988年と1989年にコンテンポラリー(レーベル)から2枚のアルバムをリリースしている。1991年にコンコードと契約し6枚のソロ・アルバムをリリース。Concord-Fujitsu Festival で何度も日本を訪れている。
精力的に活動を続ける Ms. Sloane、1998年にはボストンのシンフォニーホールで Boston Pops Orchestra と、そして翌年には New York Pops Orchestra と共演、同年に Duke Ellington のトリビュートアルバムをDRGレーベルからリリースしている。また、カーネギーホールでの Ella Fitzgerald トリビュートにも参加。
2000年には4時間のラジオジャズ番組 “The Jazz Matinee”(NPR系WICN-FM)のホストとしてスタートを切る。この番組は週5日で、プロデュースに丸1年かかったそうだ。2001年の春には Ms. Sloane の公演スケジュールが忙しすぎてWICNを離れ、ツアーとCD制作の日々に戻らざるを得なくなってしまった。
2001年、有名なハイノート・ジャズ・レーベル(HighNote Jazz label)と契約を交わし、“I Never Went Away”、“Whisper Sweet” を発表。
2007年4月に Arbors レーベルから “Dearest Duke” を、2009年 “We’ll Meet Again” を発表。
2019年9月、マンハッタンのバードランドでソールドアウトのショーを行い、2020年3月に再度ブッキングされていたが、新型コロナの影響で多くのジャズクラブがそのドアを閉じてしまった。結局 Ms. Sloane のショーも実現されなかった。2020年6月、Ms. Sloane はご自宅で脳卒中で倒れられた。
こうして過去のインタビューなどから彼女の歩まれた人生について知りディスコグラフィーを拝見すると、一枚一枚のアルバムをどんな思いで歌い上げているのか、歌っている彼女の当時の心境が少しは読めるような気がしてくる。それにしても若い頃の録音からも十分哀愁が伝わってくるのは彼女が持って生まれてきた能力や深みのあるお声に加え、努力によって得られた卓越したボーカルテクニックからなのだろう。
Ms. Sloane の Webサイトに、リハビリに励まれる彼女への励ましの手紙を受け付けているという記載があったので、私も手紙を書かせて頂いた。
「素晴らしい歌のギフトをありがとうございます」
と心を込めて。日本には Ms. Sloane のファンも多いとお聞きしている。ファンの皆さん、そして今回好きになったという方でも、もしお葉書の一枚でもお送りになればとても励みになると思うので、リンクを下に掲載しておく。
Ms. Sloane へのお手紙の宛先はこちら。
冒頭にある彼女のドキュメンタリー映画『SLOANE • A JAZZ SINGER』だが、既に制作が終了しているそうだ。前出の Stephen Barefoot氏の提案で始まったプロジェクトだそうなのだが、リンクを載せておくので是非2本の予告編を見て頂きたい。これを拝見しただけで私は既に泣いてしまった…。現時点では音楽のライセンシング(著作権料の支払い)をクリアしなくてはならず、寄付を募っている。
Ms. Sloane は Barefoot氏にこう聞いたそうだ。
“Do you really think I will matter to anyone after I’m gone?” (「私がいなくなったあとひとりでも私のことを思ってくれる人がいると本当に思っている?」)
Yes, Ms. Sloane. あなたのストーリーは語り継がれなくてはならないと思うし、この映画も一日も早く公開される日が来て欲しい。Thank you for your music.
"There is never a way to get used to the exhilaration a really good performance can give you, then with finding yourself just an hour later driving home alone or sitting in your room alone ... And the irony is that so many friends assume you are booked up for the next thousand nights, or so tired of being with people that they wind up leaving you alone when the last thing on earth you want is to be left alone ... For me, I am most alive and complete before an audience, working for them and working to bring them alive. That moment of a well-deserved standing ovation simply has to make up for a lot of loneliness in your private life.”
(「最高のステージパフォーマンスの高揚からたったの1時間後にひとりっきりで車を運転して家に帰る。…友達は私がこの先ずっと忙しいか人に囲まれて過ごすのにうんざりしていると思って何も連絡してこない。ひとりにされるのがいちばん嫌なのに。…私がもっとも輝いて自分らしくいられるのはステージに立って人々のために歌い人々を輝かせる時。その最高のパフォーマンスに対してもらったスタンディング・オベーションの瞬間がプライベートな人生で味わうたくさんの孤独を補わなくてはならないの。」)
ドキュメンタリー映画『SLOANE • A JAZZ SINGER』のWebサイト
より、筆者訳